五輪伝統種目としてのレスリングの存在意義

2013年3月18日

私は、レスリング一家に育ち、大学時代には拓殖大学レスリング部のお手伝いをさせていただきました。ですので個人的にはレスリングが五輪種目であり続けることを心から願っています。ただ、今回の件で言えばメディアを通じてもう少しレスリングの存在意義をアピールする方法もあったのではないかと思っています。

メダリストの皆さんも連日記者会見などメディアの前で、存続を訴えていました。
「レスリングの唯一のモチベーションは五輪。なくなれば、何を目標にしていっていいかわからない」
「五輪は最高峰の舞台で、頑張っている子供たちのことを考えると心が痛い」
「今後はロビー活動を強化していく」
「商業的なものしかないとしたら残念。」

メダリストの必死の訴えが心に刺さります。私自身、レスリング代表の皆さんとは2度程一緒にお仕事をさせていただき、その純粋さ誠実さを身近に感じています。ですので、皆さんの発言に偽りはなく心から声だと理解しています。
ただ、多くの種目で五輪は最高峰の舞台です。レスリングの存続が決まれば、いずれかの競技が採用されないわけですからレスリングだけが特別というわけにはいきません。では、プロやW杯があるサッカーやバスケットボールが外れてもいいかというとそうではないのです。

五輪種目がロビー活動で決定するとしたらそれは商業主義以上に悲しいことです。実際にロビー活動は影響力を持つのでしょうが、判断基準が明確ではないという点では変わりがなく、問題の解決にはなりません。まして「ロビー活動をする!」と会見で宣言することではないでしょう。

商業的なものしかないとしたら私も残念です。が、それは今に始まったことでもなく、スポーツがその商業的な部分(スポンサー・放映権料)の恩恵を受けてきたことも事実です。レスリング選手自身が商業主義をメディアを通じて批判するタイミングとしては、中核競技から外された‘今’なのかなという思いが少なからずあります。この主張は、除外の対象になっていない競技も含めてもっと広い範囲で訴えてこそ意味を持つと思います。
『オリンピックと商業主義』(小川勝/集英社新書)には、このようなことが書かれていました。

オリンピックはなぜ商業主義を必要としたのか、商業主義による弊害はなにかを問い正さない限り
テレビの前の我々もオリンピックに参加する選手達もオリンピックの価値を見出すことができない

選手、連盟、IOC、メディア、ファンなど様々な立場の人を巻き込んで議論していくべきです。しかしそれは、「レスリング存続」の議論ではなく「五輪のあり方」についてということになるでしょう。「レスリングを残してほしい」という端的な主張ではなく、古代オリンピックから続く伝統種目として五輪の失われてはならない価値や質についてメディアを通じて全世界に向けて問題提起をすることができたなら、それこそがレスリングが五輪種目であり続ける価値ではないでしょうか。IOCを敵に回してしまうかもしれないし、きれいごとかもしれませんが、そう強く感じています。伝統種目のメダリストには、それだけの発信力と影響力があるのです。

「税金は使っていない」と面と向かって五輪選手に断言されたことがあります。自分たちの強化・活動に充てられる資金がどのくらいで何によって賄われているか、スポーツとメディアはどういう関係なのかを理解していなければ現状を批判することはできません。当協会のメディア・トレーニングでは、収支予算書などを用いてスポーツとメディア、お金にまつわるお話もさせていただいています。私たちの力で、五輪を変えていくことは不可能ですが、アスリートの皆さんに自分たちの責任や価値、メディアを使っての情報発信の必要性についてお伝えしていくことでその一助になっていけるよう活動していきたいと考えています。

NPO法人日本スポーツメディアトレーナー協会 糸川雅子

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